ちまたでは食エッセイが流行っているようで、僕個人の感覚では毎月のように食べ物の話を絡めた本が出版されているように感じます。最近読んで面白かった本をあげると、平野紗季子さんの「ショートケーキは背中から」、石井好子さんの名作「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」の文庫復刻版。少し前は、くどうれいんさんの「桃を煮る人」が素晴らしかった。ほかにも気になる本として、オルタナ旧市街さんの小説「お口に合いませんでした」がこの月末に出るはずで、これはおいしくなかった料理の記憶を集め、都会の孤独を描くとのことで、読むと食欲が確実に減退し、何も食べたくなくなるそうです。すごそう。あと、忘れてはならないあの漫画。よしながふみさんの「きのう何食べた?」の二十三巻。収録している還暦の日の話は、震えるほど感動しました。
料理人の方が書く、実用度高めの食エッセイもいいんですが、目が行くのはそういう文筆家の方々の書く食の本のほう。言葉を生業にしている方々が書くだけあって、料理がどう「おいしい」かを起点として、そこに人生を織り込んだエピソードが面白おかしく入ります。先にあげた、現代のブローティガンと言っても差し支えない、くどうれいんさんが特に好きで、彼女の比喩や擬音の扱いは他に例がなく、ずるずるやパクパクなどはもちろん、「くぅ」「だぁ」「んめ」などの擬音は、昔アニメで見たミスター味っ子もかくやというパンチ力と味わいを持っています。各エピソードも秀逸で、胸、いや腹の奥まで届く食エッセイです。読むだけでお腹がすいていくるというか、よだれが出ます。
多少なりとも文章に携わる者としては、食エッセイはもはや登竜門ではないかと考え、自分も書いてみようとしましたが、どうもうまくいかない。そもそも僕は食べる楽しさを覚えたのが遅く、若い頃は三食レトルトでもいいと思っていたぐらいで、食の経験があまりにも不足しています。
でも考えてみると、書けない理由は別にあって、どうも僕は「米が好きすぎる」のではないかという結論にたどり着きました。つまり、僕は米を食べるために、おかずを揃えている。米のことしか真剣に考えていない。基本的には三食必ず米を食べたい。焼きそばに米、うどんにも米、パスタにも米。行楽に米。たぶん、米のことしか書けない。そう、残念ながら、人にはそれぞれ書けるものの幅と深さが限られている。
かつてモスバーガーが、「ライスバーガー」という「それ、ただのおにぎりじゃないの?」という商品をリリースした時には拍手喝采だった。海鮮丼とか牛丼とかの宣伝写真で、敷かれたご飯が見えないぐらい具が大盛りだと不安になる。「あぁ、米はどこに?」「 本当にそこにいるの?」。人でごったがえす「イオン」でわが子が迷子になったかのように、どんぶりの下層を探しに行きたくなる。具の隙間からちらっと見えた米粒に、心から安堵する。ちなみに米好きは遺伝するのか、息子は小学校で「米大臣」という称号を得て、僕同様に米をもりもり食べています。漫画みたいな器への盛り方で。
そういうわけで、ここ最近の米不足と価格高騰には、大いに心を痛めています。色々事情はあるでしょうが、町なかの田んぼはなんとか残さないといけないのではないでしょうか。僕が田んぼが好きなのは、風景の美しさはもちろん、稲穂ごと好きだからでもあります。食べられる美しさの凄み。町内の水鏡の田んぼや収穫の時期を撮影した自分専用の動画をいくつか持っており、刈り入れを頑張っておられる農家の方の姿やついばみにくる鳥と稲穂がゆれる「田んぼ動画」を鑑賞しているだけで、みるみるご飯がすすむというものです。
今日も夜の七時には、一番好きな米時間がやってきます。席につき、茶碗いっぱいの米を上から覗き見て、静かに待ちます。その瞬間は、まるで飛び込み台に立つ、高飛び込みの選手のよう。目の前に広がる湯気のたつ白きプール。観衆はじっと耳を澄ませ、挙動の全てを見逃すまいと身を乗り出しています。拍手が鳴り響き、声援が高まり、さっと静寂へ。そして、「いただきます」の号砲で、白い水面へと躍り込む。今まさに。最初の一口を運ばんがために。幸せの一口のために。その瞬間を感謝の言葉にしつつ。「おいしい」と。
【プロフィール】
おりこのかずひろ
山崎(島本側)在住(19年目)。
本屋「プオルックミル ブック」店主。
私的山崎観光案内所運営、映画「家路」監督。
一児の父。物書きでもあります。
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