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後鳥羽院営む水無瀬離宮に頻繁に訪れた歌人・藤原定家や周りの 公家たちの儀式儀礼から公私にわたる事件まで、今なら炎上しそう な言動も交えて綴った日記から、公家社会を垣間見る第10話。
愛されすぎにおののく定家
蹴鞠が盛んに行われる一方で、平城上皇の変(薬子の変)以降避けられていた上皇と天皇との長期同所同宿を院は気にせず、院御所内に禁中(天皇の御所)を造って順徳天皇と頻繁に会うように。何やら怪しげ…。
院や天皇のエスカレートする為家への寵愛と、蹴鞠に夢中になって歌も本もよまない息子に定家は不満と不安が交錯。
寵愛に愚痴ばかりの定家も建保2年、希望していた参議に任じられ、「朝恩の深さを知る」と調子のよいこと。
官位に翻弄される人々
建保5年(1217)、西園寺公経(定家妻の弟)は後鳥羽院より約束されていた右大将の地位が卿二位兼子(後鳥羽の乳母)推しの公卿に授けられたと聞いてガックリ。「出家でもして(姻戚関係のある将軍実朝がいる)関東に行けば暮らしていけるでしょう」と話したが、使者は
と誤伝し、院は激怒。これに実朝が抗議。
公経は出仕停止は取り消されたものの、院と公経、実朝の関係はギクシャク。一方の実朝も将軍でありながら官位にこだわり、権中納言⇨左・右中将⇨内大臣と異例なスピード昇格。しかし、執権・義時と事務方の官僚・大江広元は…。
実朝はこれを拒否し、建保6(1218)年12月、内大臣から右大臣の任官を受けます。そして翌年1月。鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の礼を終えたところで、非業の死を遂げた二代将軍頼家の息子・公暁に実朝は暗殺されます。
朝廷と幕府
翌月、北条政子は院と実朝の妻の姉との間に生まれた頼仁親王を将軍にと申し出。しかし、水無瀬殿に閉じこもっていた院はこれを拒否。
幕府は親王を諦め、左大臣道家の三男頼経(源・西園寺家とも血縁)を鎌倉に迎えたいと申し出ます。頼経の養父・公経は幕府との関係を強めようと奔走し、朝廷に受け入れさせます。
これと並行して義時と院との間では、院が寵愛する伊賀局の庄園と地頭をめぐって問題が起き、これがのちに起こる乱の引き金に。
定家の歌に院、激怒
1219年、高陽院殿周辺で大火災が起き、元号が承久と改められます。しかしその3か月後、謀叛の輩によって内裏が焼失。院は内裏再建のために全国の荘園・公領の税を大幅アップ。地頭たちは反発して協力せず。院のイライラは募っていきます。
1220年2月、順徳天皇の内裏歌会に召集がかかったものの、定家は母の法要を理由に辞退。しかし、再三の催促にしぶしぶ歌二首を提出。天皇の内裏歌会の歌を常々、目を通していた院はその時も読んでいたところ、定家の、特に左記の歌を目にして、激怒。
道のべの野原の柳したもえぬ
あはれなげきのけぶりくらべに
訳:道のほとりの野原の柳は下萌えした。ああ、あたかも嘆きのために立ち昇る私の胸の煙と競い合うかのように(訳:久保田淳「藤原定家全歌集」上)
この歌のどこが逆鱗に触れたのかは、いろいろな解釈がありますが、「歎きの煙」が菅原道真の詠んだ歌や前年度の火災を思わせ、院の政治手腕を暗に非難しているかのようにとられたのではないかと言われています。以降、内裏の歌会への出席は禁止。このことが院との別れになるとは、定家は思いも寄らず…。
ご協力 大山崎町歴史資料館館長 福島克彦さん
文・絵 オオバチエ
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【掲載紙面】
【参考文献】
藤原 定家 『訓注明月記』第2~3巻 松江今井書店
大山崎町史編纂委員会編集 「大山崎町史」大山崎町役場
長岡京市史編さん委員会編集 「長岡京市史」長岡京市教育委員会
島本町史編さん委員会編集 「島本町史」島本町 ほか