京都と大阪の府境にある小さな町・大山崎で、リトルプレス「大山崎ツム・グ・ハグ」など印刷物を作っている大山崎リトルプレイスです。このブログでは「大山崎ツム・グ・ハグ」記事を中心に紹介しています。 https://www.o-little-place.com/
今日もリトルプレス『大山崎ツム・グ・ハグ』の制作に励んでます。。。

蘭花譜と大山崎山荘 
 

大大阪時代を生きた男の情熱


5月12日 (日)まで

③中村清太郎「大山崎山荘図会」(1932年)当館蔵

    中村清太郎「大山崎山荘図会」(1932年) アサヒグループ大山崎山荘美術館館蔵

  大正から戦前(1920年代から1930年代)にかけて大阪市が人口・面積で東京市を抜いて国内1位となり、「大大阪」と呼ばれた時代。若くして莫大な資産と家業(証券業・林業など)を継ぎ、大山崎山荘を設計・建設した大阪の実業家・加賀正太郎は、自身が関わる分野で常に上を目指し、その情熱ゆえに周りから非難されながらも大阪初のゴルフコースの建設やニッカウィスキーの設立・運営に尽力するなど数々の功績を残しました。

 彼のもうひとつの偉業である「蘭花譜」をメインにした今回の展覧会。学芸員の森田明子さんの案内で回った会場の様子と、ツムグハグでもこれまでに追ってきた加賀正太郎の功績や大山崎山荘の歴史(2011年「漱石の恋と大山崎山荘」・2020~21年「陶工河井次郎とアサヒビール初代社長山本為三郎、そして加賀正太郎)を、蘭花譜をメインに振り返ります。

 子どもの頃から蝶の収集で野山を駆け巡り、高山植物や登山にも趣味を広げた加賀正太郎。大学卒業前の欧州旅行では、日本人で初めてユングフラウに登頂。

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 その後訪れたイギリスのキュー王立植物園で、洋蘭に出合います。大学卒業後すぐに家業を継いだ加賀はまもなくして体調を崩し、大山崎に土地を購入して自ら別荘を建築。同時に建てた温室(当初は小規模だったが、のちに増設)で、独自に蘭の栽培を始めます。

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 加賀はより高みを目指し、新宿御苑(当時は皇室庭園)より洋蘭栽培の専門家・後藤兼吉を呼び寄せ、二人三脚で次々と栽培・交配に成功していきます。大山崎で繰り返し交配し、その中で特徴ある蘭には「オオヤマザキ」と名付けるなど、やがて大山崎は蘭のメッカと言われるようになりました。

 その一方で温室をはじめ、建物や庭園などの一木一石すべてを自ら設計・指揮し、20年余りかけて別荘は完成。夏目漱石やゴルフ仲間でもあった近衛文麿など国内外の政財界・文化芸術界から多くの人が訪れました。

 漱石は、その名を依頼されて14もの案を送りますが、加賀はどれも採用せず返事も送らないまま、自ら「大山崎山荘」と命名してしまいます。

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 ある日、植物画を得意とする画家・池田端月が加賀を訪ねてきます。かねがねから蘭の学術的記録を残そうとしていた加賀は、写真ではその特徴を正確に隅々まで写せないと判断。さらに絵画として鑑賞もできる図譜をと考えていました。池田の植物画を観てその画力に感嘆し、蘭の下絵を依頼します。

 海外で発行された蘭花譜も多く持っていた加賀は、西洋式印刷しかないと思っていましたが、蘭の色や細部まで表現するのには木版画の方が適していることに気づきます。そして、ここでも加賀のこだわりは極まります。彫師・摺師を国内最高の職人にし、1枚の図譜に版木は10から20版、刷りは200回を重ねるものまで。会場に展示された104枚の図譜を直に見れば、加賀が通常の印刷では表現できないと考えた意味がわかるでしょう。紙は刷りをいくら重ねても傷まない丈夫な和紙を特注し、その全てに「天王山大山崎山荘」の透かしを施すこだわりよう。

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 蘭花譜制作開始前後から、日本は満州事変、国際連盟脱退と軍の関係する事件が続き、第二次世界大戦へと突入。技術者の徴兵や温室の燃料不足、紙の入手困難などにより、蘭栽培の継続も蘭花譜の制作も苦難が続きます。

 戦争終結後、図版が散逸する恐れや周りからの勧め、預金封鎖や財産税による資金不足などを危惧し、1946年に加賀は可能な限りでの「蘭花譜」第1編発行に踏み切ります。

 「蘭花譜」の序文の一節に「日本は美しい国である。民族は治めやすい民である。過まれる指導者たちによって建国2600年にして一応国は亡びた。(略)日本民族は必ず更正するであろう。時を要するかもしれないが、今迄とはまるで違った形において、美しき日本は必ず生まれ出るであろう」と希望を綴り、日本アルプスや伊豆のゴルフコース、大山崎山荘の景観を挙げ、日本は欧米と比べて決して引けをとっていないと説きます。

 しかし、念願の蘭花譜を発行した加賀は喉頭がんを発症し、1954年(昭29)に取締役会長としてニッカウィスキー株式会社(元大日本果汁株式会社)の行く末を案じ、朝日麦酒株式会社初代社長・山本爲三郎に持株を託して、66歳の生涯を終えます。

 その後、大山崎山荘は1967(昭42)年に加賀家の手を離れ、高級レストランになるなど所有者は転々とし、2度の開発危機に見舞われます。1度目は1967年。天王山山上5万坪にヘルスセンター、展望台、ジェットコースターなどを含む自然公園と、山崎駅からロープウェイ、島本町側からドライブウェイを作るという壮大な計画が発覚。住民たちの反対運動は島本町側にも広がり、京都府が風致地区の解除を許可せず開発を逃れます(「大山崎町史」より)。2度目は1990(平2)年。大規模マンション建設計画が発覚。再び反対運動が起こりました。京都府知事から相談を受けたアサヒビールと京都府、大山崎町が協力して大山崎山荘を取得し、1996(平成8)年に山荘は美術館へと生まれ変わり、今回の展覧会に至ります。

 加賀が決して世界に引けを取らないと語り、戦火や開発を逃れて残った美しい大山崎山荘とその眺望、そして木版画の「蘭花譜」。ぜひ、(じか)にご覧ください。文・イラスト オオバチエ


【画像・入館券提供】 アサヒグループ大山崎山荘美術館


【参考文献】

蘭花譜: 天王山大山崎山荘
加賀 正太郎
角川書店(同朋舎)
1995-04-01




アサヒグループ大山崎山荘美術館協力「漱石と京都―花咲く大山崎山荘」
中山禎輝「アサヒビール大山崎山荘美術館誕生物語 天王山の宝石箱 ドラマチックな美の館」PHP研究所
大山崎町史編纂委員会「大山崎町史」大山崎町
東山利雄「いま蘇る、栄光の茨木・東コース物語」 社団法人 茨木カンツリー倶楽部

 

「蘭花譜と大山崎山荘」展入館券を先着1組2名様にプレゼント

「蘭花譜と大山崎山荘チケット希望」・氏名・住所、ツムグハグの感想をメールでお送りください。発送をもって当選発表とさせていただきます。 

 宛先  o.little.placegmail.com


【掲載紙面】
ツムグハグVol63_ページ_1
ツムグハグVol63_ページ_2








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