2023年12月16日(土)~2024年2月25日(日)
明治の日本から単身渡欧し、エコール・ド・パリの代表的な画家として活躍した藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886―1968)。
数奇な人生を歩んだ藤田ですが、その名声と本人による巧みな印象操作によって、彼の人となりやその時々の心もちは、いまだ謎に包まれたままです。〈以上プレスリリースより抜粋〉
ここでは、その藤田嗣治(以下フジタ)の数奇な人生を紙面の限り、振り返ります。
小さい頃から絵が上手く、画家志望だったフジタは、中学生の時には陸軍軍医の父にそのことが面と向かって言えず、手紙で訴えます。一方、父は同じ軍医の森鷗外にフジタの進学を相談。鷗外は美術学校を終えてからのパリ留学を勧めます。
東京美術学校を卒業したフジタは女学校裁縫科教師・鴇田とみと出会い、26歳で結婚。翌年、一足先に単身パリへ行き、画家・川島理一郎
と出会って意気投合。古代ギリシャ美術に傾倒し、この頃からおかっぱ頭に。
パリではルノワールやモディリアーニ、ピカソたちと交流。ある日ピカソの家で見た日曜画家アンリ・ルソーの自由な作風に衝撃を受け、黒田清輝らから学んだ「黒色厳禁」をはじめとする日本の美術教育を放棄。
第一次大戦が勃発して帰国する人が多い中、フジタはパリでひとり生きていく覚悟を決め、とみに縁談を勧めて離縁します。
翌年フジタは画家フェルナンドと結婚。彼女の献身的な売り込みと画廊との契約や個展の開催で、フジタの絵は評判に。
しかし世界から画家が集結するパリで、油絵経験が浅い日本人はかなわないと考えたフジタは、日本の筆と墨で輪郭線を描くことを思い立ち、その線を長く細く引くための「乳白色の下地」を開発。その技法を用いた『裸婦』は「素晴らしき乳白色」と称賛されました。
1937年に日中戦争勃発。以降、軍部の依頼で戦地を取材し、戦争画(作戦記録画)を描くことに。一旦は5番目の妻・君代とパリに戻っていたフジタは、第二次大戦が起こると帰国。トレードマークのおかっぱ頭を丸刈りにし、戦争画制作に没頭していきます。
戦争が終結すると戦争画家への責任追及や誹謗中傷が起こり、フジタは日本画壇、日本と縁を絶ち、フランスへ。二度と日本に戻りませんでした。
大山崎山荘美術館での藤田嗣治展は初開催。広報担当の太田道子さんに見どころなどを伺いました。
「昨今、藤田嗣治が私的に制作したもの(本展では「手しごと」と称しています)や知人と交わした書簡などの研究が深まってきたので、代表的な絵画作品などからはうかがい知ることができなかった藤田の多様な側面を改めてお伝えできる機会と思い、展覧会を企画しました。
知人に宛てた書簡や夫人のために制作した手しごとなどにはユーモラスでかわいらしい特徴が見られ、藤田のキャラクターが伺えます。晩年の奥様と暮らしていた住空間は、自ら制作したインテリアで囲まれていたようです。藤田が日々の暮らしを楽しみながら、大切にしたかったことなどを想像して作品鑑賞をしていただくと、彼の新たな一面が見れ、代表的な乳白色の絵画作品なども新しい視点で楽しむことができるかもしれません」。
*写真・入場券提供
アサヒグループ大山崎山荘美術館
* 文・イラスト
オオバチエ
「藤田嗣治」展入館券を先着5組10名の方にプレゼント!
「藤田嗣治展チケット希望」・氏名・住所、ツムグハグの感想をはがきに記載の上、下記までお送りください。発送をもって当選発表と代えさせていただきます。
宛先
〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎尻江34-1
京都新聞大山崎販売所2F 大山崎リトルプレイス宛
【参考文献】
*引用 P89 10行目
【掲載紙面】
