7月15日(土)~12月3日 (日)
「舩木倭帆展」入館券プレゼント! 詳細は最後に
☜当選者数に達しましたので終了しました!ご応募、ありがとうございました!
《リーフ文大皿》 1988-2012
7月1日よりアサヒグループ大山崎山荘美術館(以下、大山崎山荘美術館と記載)と館名が変わっての最初の展覧会です。
大山崎山荘美術館では2006年に舩木倭帆の展覧会が催されており、今回は2021年に森田昭一郎氏(森田酒造株式会社取締役)による舩木倭帆作品105点の寄贈を記念しての開催です。
日本でガラス製品が造られたのは弥生時代と古いのですが、装飾に使われるガラス玉が主で、うつわは渡来品。権力者が手にしました。庶民の生活での食器やランプ、薬用瓶などのガラス製品が作られるのは、江戸から明治にかけて。明治半ば以降は、ビール瓶やコップなどの製造も始まります。しかしスジや泡があったり、透明でなかったりと粗悪品。昭和に入って数多のガラス製造工場では、海外の本格的な技法を習得したり独自に開発を行ったりし、質の高い製品とガラス工芸家を生み出しました。(文責・編集部)
こうした時代に、舩木倭帆は島根県松江市で布志名焼(黄色の釉薬に色絵が特徴)の窯元の次男として生まれます。幼少の頃から絵が好きで、高校時代は油絵や木版画を描き、大学は何になりたいわけでもなく芸大を志望。しかし、父(画家を志して画学校で学んだが、家業を継いだ)の進言で、絵を描きつつ島根大学文理学部に通います。
当時、父のもとには柳宗悦や河井寬次郎ら民芸運動の先駆者たち(民藝や先駆者たちはVol46でも紹介)が出入りしていました。倭帆は彼らからガラス工芸という世界を知り、日本の暮らしに馴染むガラス器を作ろうとガラス工芸家を志します。大学卒業後はガラスの知識を得るために、ガラス製造会社2社で吹きガラスの現場で働きます。
やがて自分で小さな窯を持ち、自由に創作に打ち込みたいと、同じ志をもつ同僚の伊藤孚と共同窯を設立。しかし、数年後に心不全に倒れ、共同窯はやむなく閉鎖。しばらくは若者の育成にあたっていましたが、翌年、医師の許可も得ないままに制作を再開。その後も発症と静養を繰り返しながら、暮らしの中で活躍するうつわを作り続けました。
左《モールデカンタ―》1988ー2012年
右《モールピッチャー》1977ー87年
今回の展覧会の見どころついて、 広報の太田道子さんに伺いました。
「舩木倭帆ガラス作品の作風には、布志名焼窯元の父・道忠が描いたスリップウェアの模様が影響しているようです。倭帆本人も『幼いころから見て育った父のスリップ模様を描く姿が頭の中に沁み込んでいる』といった言葉を残しており、倭帆のうつわに見られるのびのびとした文様、作品全体から感じられるあたたかさは、幼少期からの体験が関係しているといえるでしょう。そうした影響が見られる、ぬくもりを感じるやわらかな曲線美や色彩の作品には、倭帆がストイックに取り組んだ高度な技法も裏打ちされています。例えば下の作品は、脚部に絡み合うようにらせん状に施した作品です。倭帆作品のさまざまな酒器の中でもとりわけ高い技術で作られた、たいへん貴重な作例です。作品を通して、ガラスという素材の可能性や魅力を感じ、そしてガラスのうつわを日常で使う風景を想像しながらご覧ください」。
《エアーツイストワイングラス》 1977-87年
写真・入館券提供 アサヒグループ大山崎山荘美術館
「舩木倭帆展」入館券を先着5組10名の方にプレゼント!
⇒こちらは終了しました。ご応募、ありがとうございました。
はがきに、「舩木倭帆展チケット希望」・氏名・住所、ツムグハグの感想などを記載の上、下記までお送りください。入館券の発送をもって当選発表と代えさせていただきます。
宛先
〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎尻江34-1
京都新聞大山崎販売所2F 大山崎リトルプレイス宛
【参考文献】
舩木倭帆 著
「船木倭帆の仕事 ガラスの器」 芸艸堂
「吹きガラス 舩木倭帆作品集」 芸艸堂
【掲載紙面】

