*前回までのお話➡第1話・第2話・第3話・第4話・第5話・第6話
後鳥羽院営む水無瀬離宮に頻繁に訪れた歌人・藤原定家や周りの公家たちの儀式儀礼から公私にわたる事件まで、今なら炎上しそうな言動も交えて綴った日記から、公家社会を垣間見る第7話。
前号では定家を上回る、現代なら炎上しそうな悪戯が過ぎる後鳥羽院ベスト5と院に振り回される定家たちを紹介しました。今回は、後鳥羽院が頻繁に訪れた水無瀬離宮がどのような離宮だったのかを、それにまつわる出来事とともに綴ります。
造営魔で引越し魔
後鳥羽院は、譲位されてから11年間に十余りの院御所を源通親や通親の息子・通光などに新造または改築させました。火災や災害があったにせよ、9ケ所の院御所に引っ越すこと13回。
中でも水無瀬殿は、「何とも言いようがないほどおもしろい離宮」といわれるほど。現在の水無瀬神社周辺にあったとみられ、もとは通親の別荘。院はたびたび訪れて気に入られたのか、通親から譲り受けて離宮にしました。風光明媚な地を存分に楽しめる造りにし、直に船を横づけできる釣殿や競馬・笠懸などを楽しむ馬場殿も造営。
川に隣接していた離宮はたびたび洪水に襲われ、定家たちは疲労困憊。一方、院は船で遊覧するほどの面白がりよう。しかし、1216(建保4)年の大暴風雨で倒壊、流出してしまい、翌年山側にも御所を造営。先の御所と区別して、上御所と呼ばれました。
水無瀬殿に通ったもう一つの理由
院御所の中でも頻繁に通われたのが水無瀬殿。風光明媚な地でおもしろき離宮だったことのほかに、後鳥羽院から寵愛を受け、水無瀬殿に局を与えられたという ( *1)更衣 (*2)の尾張局がいたことも理由の一つ。
院の后妃には兼実の娘・任子、通親の養女在子、在子の従妹にあたる重子ほか、幾人かの寵愛を受けた女房 (*3)がいました。
前述した通り、皇女を生んだ任子は宮中を去って皇子(土御門天皇)を生んだ在子は残り、通親と在子の密通を知ったであろう後鳥羽天皇は重子を寵愛。任子が去った翌年、重子が皇子(順徳天皇)を出産。天皇の外祖父を狙う通親は、後鳥羽天皇の譲位を急ぎます。後鳥羽天皇も、堅苦しい宮中から抜け出して多能多芸を発揮したかったのか、はたまた院政を狙ったのか、19歳であっさり譲位。譲位後は、ご覧の通り。
1204年(元久元年)、重子が4月に、尾張は7月に、のちに天台座主(*4)となる皇子を出産。二人とも産後の肥立ちが悪く、重子は京極殿から鳥羽殿へ移って療養に努め、その後7月には宇治御幸するまでに回復。一方の尾張は回復せず、里帰りを申し出ます。しかし、院から許しが出ず、水無瀬殿で療養していましたが、病状が急変。10月半ばに帰らぬ人に。
翌年十月、院が水無瀬で詠んだ歌から一句
思ひ出づる折り焚く柴の夕けぶり
むせぶもうれし忘れ形見を
(『新古今集』巻八哀傷歌)
今は亡き彼の人を偲んで水無瀬の離宮の庭で柴を焚いている夕べ、なびく煙にむせび泣くのも、忘れがたい彼女の荼毘の煙のように思われて、かえってうれしいのです (訳引用「史伝後鳥羽院」目崎徳衛著
P2)
院は尾張を供養して水無瀬御堂を造営し、千体の地蔵を並べました。1213年(建暦3年)には、重子のために小御所を造営しています。
*ご協力 大山崎町歴史資料館館長 福島克彦さん 文・絵 オオバチエ
*これまでのお話はこちらから全話ご覧になれます。
*1 「歌帝 後鳥羽院」P127
*2 天皇の后妃、女官のひとつ
*3朝廷に仕え、一人住みの部屋(局)を与えられた女官
*4天台宗比叡山延暦寺の住職で、一門を総監する職
【参考文献】
稲村栄一「訓注 明月記 」第2~4巻 松江今井書店
第23回企画展図録「河陽離宮と水無瀬離宮」大山崎町歴史資料館
豊田裕章「水無瀬離宮(水無瀬殿)の空間構成と機能について」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2837/1/0160_032_002.pdf
太田 静六「寝殿造の研究」吉川弘文館
林屋 辰三郎編「宇治市史2 中世の歴史と景観」宇治市
奈良国立文化財研究所年報「遺跡・庭園の調査」https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2597/1/AN0018138_1960_27_32.pdfほか