後鳥羽院営む水無瀬離宮に頻繁に訪れた歌人・藤原定家や周りの公家たちの儀式儀礼から公私にわたる事件まで、今なら炎上しそうな言動も交えて綴った日記から、公家社会を垣間見る第6話。
歌界のライバル・六条藤家の季経や源通親たちから百首歌参加を妨害された定家。父・俊成の手紙による訴えによって、後鳥羽院は定家の百首歌参加を許可。さらに院に歌が気に入られた定家は近臣となり、内裏や御幸にお供するようになります。
定家は見た! 殿の炎上ものベスト5
しかし仕えてみると、現代なら炎上しそうな悪戯(伝聞も含む)が過ぎる院に定家はあきれ、乳父だった通親も困り果てる始末。
第5位・第4位
鞍のない馬に乗せ、行列させる。
多くの人を裸にして、歩かせる。
第3位
足の悪い定家を雪の坂道で歩かせ、滑って転ぶ姿を笑いの種に
第2位
気に入らない家臣が鬼になると強く打つ。
第1位
泳ぎが苦手な人たちを川に落として笑う。
水無瀬離宮に行くには
御幸先の離宮の一つ、水無瀬離宮。船路は淀川を水無瀬津まで下り、騎馬で離宮へ。陸路は牛車で久我縄手から播磨大路(後の西国街道)を通り、道祖神辺り(山崎の渡しあたりか)で馬に乗り換え、離宮へ。
船路だと暗いうちに家を出て、着くのは朝10時頃。風が激しい日などは陸路に変更。午前8時に発ち、着くのは午後2時ごろ。
定家、山崎に泊まる…
都から出仕する定家。連日通う日もあれば泊まる日もあり。この時代はまだ宿屋がなく、定家は水無瀬川近くのえごま油で栄えていた山崎の「油売小屋」を宿にしていました。しかしこの小屋、あまりいい宿とはいえず、雨漏りしたり、洪水に見舞われて避難したりとちっとも休まりません。
こうして愚痴りながらも、山崎で毎年春に行われる2つの祭に遭遇し楽しんだようです。これは今も続く酒解神社の祭と離宮八幡宮の日使頭祭だと考えられています。
山崎での鹿狩りに思う
蹴鞠や狩猟、競馬、囲碁などと多才多芸な院。水無瀬殿から山崎山(天王山)に出かけ、鹿狩りもたびたび。終日、山から川へ追い立て、生け捕られた鹿は神泉苑(平安京傍に造られた天皇のの遊興場)へ送られることも。狩りに参加しない定家はある日、52歳(この時代では高齢)の大臣が駆り出された話を聞き…。
まだまだ水無瀬殿での憂いはつづく
*ご協力 大山崎町歴史資料館館長 福島克彦さん 文・絵 オオバチエ
【参考文献】
高野公彦「明月記を読む」上・下巻 短歌研究社
稲村栄一「訓注 明月記 」第1巻・第2巻 松江今井書店
ほか