後鳥羽上皇営む水無瀬離宮に頻繁に訪れた歌人・藤原定家や上司の九条兼実たちの儀式儀礼から公私にわたる事件まで、今なら炎上しそうな言動も交えて綴った日記から、当時の公家社会を垣間見る第5話。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、「これまでの血塗られた数々の出来事は鎌倉を守るため」と北条義時が振り返り、その死によって幕がおりました。さてここでは、再び頼朝が九条兼実を摂政に推挙した時代に戻ります。
娘を后にしたがる男たち
1186年、九条兼実の家司になった藤原定家は「雑役の如し(まるで雑用係!)」と愚痴りながらも彼なりに仕えつつ、歌会に呼ばれてはその腕を上げていきました。
その主人、摂政・兼実は相変わらず有職故実に忠実で、後白河院や源通親たち院近臣の前例のない行動や才覚、昇進要求などを批判し、はねつけていました。しかし一方で、身内びいきともとれる人事の決行により反兼実派を増やしていることに気づいてないようです。
1190年、娘・任子が後鳥羽天皇の後宮に入内(后妃として宮中〈内裏〉に入ること)。そして兼実が関白になった翌年、法皇が崩御。実権は、ほぼ兼実の手中。あとは娘が皇子を産めば、自分は外祖父となって持続的に実権を握れる。それは娘の幸せであり、家の繁栄。過去、藤原摂関家や平清盛が取ってきた手段であり、貴族なら誰もが目指すところ。当然、兼実と同じように考える人も。それは水面下で着々と進められていました。
1195年、兼実の祈り虚しく、任子は女児を出産。その半年後、朝廷内に激震が走ります。女房の一人が後鳥羽天皇の男の子を出産。その女房は通親が再婚した妻の娘・在子で、なんと通親は出産後に在子を養女に! そして翌年、任子は内裏から退出させられ、通親は兼実を罷免。九条一族を表舞台から退場させます。
「建久の政変」という舞台を周到に用意し、兼実一門を失脚させた通親は、摂関家(摂政や関白につける家柄)ではない自分に代わって自分の思惑通りに動かせる人事を敷き、さらに後鳥羽天皇の譲位、土御門天皇の践祚をごり押しして天皇の外祖父に納まります。
通親劇場を見せつけられ、九条家の下では昇進もできないと自暴自棄気味になった定家は、「官途事絶望了(官位昇進の望みは断ちます)」と兼実に宣言。
建久の政変から3年、官途絶望していた定家と九条家に朗報来たる!
政治に関心を持ち、自分の考えを述べるようになった20歳の後鳥羽上皇(または後鳥羽院)。そのご意向で兼実の息子・良経の左大臣就任が決まり、九条家復活。定家は良経の家司となり、「もう望まない」と宣言したはずの昇殿や昇進を心待ちにします。
九条家を通じて正四位と昇殿の許可を院近臣に申し入れていた定家。
除目の結果は…。
定家の出仕態度の悪さが昇進や昇殿を阻んでいそう。そうそう、皇太后宮からの歌合ご招待にケチをつけて関係者を怒らせたこともありました。
*歌合…歌人を左右二組にわけ、詠まれた歌を判者が優劣をつけて競う
これでは自分で昇進を遠ざけているようなもの。怒った季経の逆襲にも遭遇。直球ばかり投げる定家を運も見放してしまうのか。
しかしこの後すぐに、定家はこのメンバーに入れないことがわかります。
これを聞いた定家の父・俊成は天皇に手紙を手渡し、直談判。
この手紙を読んだ後鳥羽天皇は定家の参加を認め、昇殿も許可。天皇は定家の歌を大変気に入り、定家を近臣に。
つづく
ご協力 大山崎町歴史資料館館長 福島克彦さん 文・絵 オオバチエ
遠城 悦子「建久七年の九条兼実『関白辞職』」「建久元年の源頼朝上洛に関する一考察」「建久六年の源頼朝上洛についての再考察」法政大学史学会
五味文彦「藤原定家 芸術家の誕生」山川出版社
稲村栄一「訓注 明月記 」第1巻 松江今井書店
山崎桂子「正治初度百首鳥歌の考察―俊成・定家一紙両筆懐紙を中心に」広島大学学術情報リポジトリkokubungakukou_124_1.pdf
岸部誠「藤原定家と式子内親王 後見という観点からの一試案」愛大史学 : 日本史学・世界史学・地理学 ほか