*前回までのお話➡第1・第2話
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の武家時代。後鳥羽上皇営む水無瀬離宮に頻繁に訪れた歌人・藤原定家や上司の九条兼実たちの儀式儀礼から公私にわたる事件まで、今なら炎上しそうな言動も交えて綴った日記から、当時の公家社会を垣間見る第3話。
大河ドラマでは兼実の出番はわずかでしたが、今回は前回でも触れたように、その時代の中から「以仁王の乱」と源義経による「源頼朝追討宣旨要求」が起こった時の様子を取り上げます。
たまに出勤してきては空気を読まずに正論を吐く兼実と、まじめに出勤して空気を読む発言派がぶつかります。
国益を考えない恥知らず
力で政権を奪った平家との距離を置きたい兼実が、持病を理由に欠勤を続ける中、以仁王(法皇の皇子)の平家打倒の企てが発覚。企ては未然に弾圧されたものの、皇子は逃亡。その皇子を興福寺の宗徒たちがかくまっているとして、その対応を話し合う会議が開かれ、兼実も出席。
結局この会議終了後、以仁王討伐の情報が寄せられ、軍を派遣することもなくなりました。
無罪の者を罰するというのか!
清盛が病で急死。舵を失った平家はやがて都を追われ、源義経により壇ノ浦で滅亡。この功労賞ものの義経を頼朝は認めず、義経は「兄が自分の抹殺を企てている」として、法皇に頼朝追討宣旨
*2 を要求。法皇は、兼実に遣いをよこして意見を求めます。
自分の出世欲で頼朝をかばっているかのごとく言われた兼実はブチギレつつ、「法皇は頼朝にまずこう問うべき」と話し始めます。
法皇は他の大臣の賛成を得て、義経に頼朝追討宣旨を下すことに。しかし、義経が兵を集められず、焦った法皇は頼朝への弁解方法を兼実に相談。
義経らの都落ちから10日後、法皇は今度は義経を追討せよと宣旨を出す始末。これが頼朝から「日本国第一の大天狗」と言われる所以。一方、兼実の一貫した言動が頼朝の耳に入り、頼朝は兼実を後鳥羽天皇の摂政に推すようになり、基通や通親とは敵対関係へ。藤原定家は兼実の部下となり、後鳥羽天皇には歌で認められ、やがて水無瀬離宮や大山崎を訪れるようになります。 つづく
次号Vol.55(8月25日発行)につづく
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