昨年オープンした、平安時代の瓦づくり空間を体感できる「史跡大山崎瓦窯跡公園」。公園造営を担当した大山崎町生涯学習課の古閑さんに日本の瓦づくりとその歴史を伺う第8話。
【前回までのお話】
6世紀半ばに仏教が伝わり、その広がりとともに寺院建立が流行って瓦づくり技術が発展。
781年、強大な力を持つようになった寺院や天武系勢力からの政治介入を避けるため、桓武天皇は都を奈良から京都の山背国乙訓郡(現在の西向日から大山崎町下植野)へ早急に遷します。しかし、その長岡京の完成を待たずして794年、都は平安京へ。わずか10年で遷した理由はたたり説が有力ですが、古閑さんは「桓武天皇は3代にわたって平安京を完成させることを目論み、長岡旧京は平安京の経済を支える地域として利用しました。その遺志を継いだのが嵯峨天皇と大山崎瓦窯でした」と話します。
それを聞いていたカエル君、一つの疑問を投げかけました。
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紙面と同じように、話は右から左へと進みます。
こうしてできた大山崎瓦窯は西賀茂と吉志部の窯の技術や笵を用いて、豊楽院に瓦を供給しました。しかし、徳政相論により平安京造営の中止が決まると、どの窯も操業停止となり、西賀茂と吉志部は廃窯へ。
桓武天皇の後を継いだ平城天皇は、平安京造営には消極的でした。しかし病により、わずか4年で弟・嵯峨天皇に譲位します。
【嵯峨天皇と山崎】
さて、嵯峨天皇。政務の合間を縫ってよく大山崎に遊びに来られました。
天皇は狩猟や詩歌を好み、水無瀬野へ狩りに行く時や遊宴を催す時は、山崎駅(現在の離宮八幡宮辺り)によく行幸(天皇が外出すること。目的地が多数ある場合は「巡幸」)されました。
「駅」は、次の駅に行く時に乗る馬のレンタル所であり、貴族や上級役人専用の公共休憩施設。外交使節を迎えることもある駅舎は瓦葺白壁の建物で、特に山崎駅はりっぱだったとか。
山崎駅はやがて「山崎離宮」と呼ばれ、リニューアルされてからは嵯峨天皇の中国好みに合わせて「河陽(中国の県名)離宮」と呼ばれました。その瓦は、大山崎瓦窯産でした。
【国の安寧を求めた嵯峨天皇】
嵯峨天皇は即位すると、桓武天皇の遺志を継ぎ平安京造営を再開。大山崎瓦窯も操業を開始します。
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【平安京の瓦づくり工場の紙面】
【Vol.48 P2-3紙面】