6月19日からアサヒビール大山崎山荘美術館で開催されていました「生誕130年 河井寬次郎展―山本爲三郎コレクションより」の会期が残すところ1週間を切りました。まだご覧になられていない方は、ぜひご鑑賞ください。
この展覧会をきっかけにお送りしてきたこの連載も今回が最終回となりました。
前回のお話はこちら第1話、第2話
ここからが掲載記事になります。では、お楽しみください。
無名の陶工たちの生き生きとした器に惹かれて生活に根ざした器を作り、柳宗悦らと民藝運動を展開した河井寬次郎。その民藝運動に賛同・支援した山本爲三郎。ニッカウヰスキー創立に関わり、大山崎山荘を建てた加賀正太郎。3人それぞれのつながりや展覧会について、アサヒビール大山崎山荘美術館広報の池田恵子さんのお話を交えてご紹介する第3話、最終回です。
■これまでの主な登場人物と相関図


1924年、山崎に日本初のウィスキー工場が完成し、竹鶴が工場長として赴任。
同年、前年の関東大震災により、柳が京都に移住。濱田は、柳に作品を酷評され、会うのを避けていた河井を連れて柳家へ。河井はそこで、木喰仏(僧・木喰が彫る、独特の笑みを持つ仏像)に出会います。

1925年、意気投合した3人は、木喰仏を探す旅へ。道中、「民藝」という言葉を生み、「民藝」の普及運動を始めます。
昭和天皇の即位を記念し、国産品の振興を目的とした「大礼祭」(御大礼記念国産振興東京博覧会)の開催が1928年に決まり、倉橋は直談判して自ら事務総長に。
倉橋から打診を受け、柳や河井たちは民藝の理想とする暮らしの家を「民藝館」として展示することを提案。山本がこの建物を調度品まですべて買い取る計画で話は進みました。
民藝館は古風ながら洋間や子供室などもあり、評判に。閉幕後は大阪の山本邸宅内に移築され、「三國荘」と名を変えて住居兼民藝運動の拠点になりました。
1929年、河井は3年ぶりに個展を開催。これまでとは違う使われることを意識した作品に訪れた人は驚きました。
*前号までは「23歳で継ぎ」としていましたが、山本爲三郎の17歳(数え年)に合わせて、加賀正太郎24歳と修正いたします。 参考文献:「生誕130年 河井寬次郎展 山本爲三郎コレクションより」図録
アサヒビール大山崎山荘美術館/「山本爲三郎翁傳」山本爲三郎翁伝編纂委員会 朝日麦酒株式会社/「蘭花譜」加賀正太郎 同朋舎出版/「アサヒビール大山崎山荘美術館誕生物語
天王山の宝石箱」中山禎輝 PHP研究所/「大日本窯業協会・工政会の倉橋藤治郎と胎動期の民芸運動ー美術と産業の間への視線」濱田琢司/「陶工 河井寬次郎」橋本喜三 朝日新聞社/「ニッカウヰスキー80年史」 80年史編纂委員会 ニッカウヰスキー/ 「茨木・東コース物語」東山利雄 社団法人茨木カンツリー俱楽部 /「[川勝コレクション]河井寬次郎作品集」京都国立近代美術館編 東方出版/「柳宗悦・河井寬次郎・濱田庄司の民藝なくらし」丸山茂樹 社会評論社/生誕三百年「木喰~ふるさとに還る、微笑み。~」監修
小島梯次 発行 見延町/「近代日本のビール醸造史と産業遺産」川島智生 淡交社/一般社団法人
大阪倶楽部 https://osaka-club.or.jp/ ほか