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【前回までのお話】
中国より仏教が伝わると、豪族たちの間で布教と寺院建立がブームになり、仏像を祀る建物などに瓦屋根が採用されました。やがて、律令制の中央集権国家を目指して唐をモデルに藤原京を造営。宮殿で初めて、瓦葺屋根が採用されます。しかし、都として不十分とわかり、平城京造営へ。 平城京では宮殿以外にも瓦葺屋根が推奨されて大量の瓦が必要になり、窯や瓦の作り方が工夫され、瓦づくり技術は大きく発展しました。
聖武天皇の時代には、平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波宮、再び平城京へと遷都を繰り返し、781年に桓武天皇が即位すると、都は山背国乙訓郡(現在の西向日から大山崎町下植野)へ。
なぜ、桓武天皇は奈良を捨て、京都・乙訓郡を都に選んだのか。今回は「瓦づくり」から離れて、地元でもある長岡京についてお送りします。