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「生誕130年 河井寬次郎展
―山本爲三郎コレクションより」
アサヒビール大山崎山荘美術館(以下アサヒビール美術館)で、
来年3月7日まで開催中です。
河井寬次郎「筒描花文額皿」1950年
アサヒビール大山崎山荘美術館蔵
河井寬次郎たちが提唱した民藝運動に賛同・支援した、アサヒビール初代社長・山本爲三郎。同時代にニッカウヰスキー創立に関わり、大山崎山荘を建てた加賀正太郎。3人それぞれのつながりや展覧会について、アサヒビール美術館広報の池田恵子さんのお話を交えてご紹介する第2話。
1910年代、山本や加賀は家業に励み、河井寬次郎は工業学校時代の後輩・濱田庄司とともに、京都市立陶磁器試験場(陶磁器の最新技術を研究、指導する機関。以降「試験場」)で1万種に及ぶ釉薬の研究と試作に取り組んでいました。
河井寬次郎は試験場で約3年間勤務後の1917年、その腕を買われて陶工の清水六兵衛のもとで技術顧問として働きます。
一方、濱田は帰省した東京で、バーナード・リーチの作品展に訪れた縁で、リーチや柳宗悦と出会います。
1918年、山本爲三郎は鳥井信治郎(のちのサントリー社長)らとともに、本場のウィスキーづくりを学ぶためにスコットランドへ旅立つ竹鶴政孝(のちにニッカウヰスキー社長)を神戸の港で見送っていました。
1920年、河井は実業家から支援を受け、清水六兵衛の持ち窯のひとつを手に入れ、作家活動に入ります。一方、濱田はリーチとイギリスへ旅立ちます。
河井が個展で高い評価を受ける前に、その才能を紹介した人物がいます。山爲硝子の技術顧問で、山本に古陶磁器の魅力を伝え、濱田を引き合わせた倉橋藤治郎という人物です。
彼は窯業界の専門雑誌(1920年『大日本窯業協会雑誌』第28集第355号)に「芸術としての陶器」をなす人物のひとりとして河井や濱田をあげていました。その倉橋は、柳宗悦などとともに「新しい鑑賞にくさびを打ち込んだ*1」ひとりとして評価されていました。
1921年、河井寬次郎は、東京の高島屋で初の個展を開催。
しかし、同じ時期に開催されていた朝鮮民族美術展で、柳宗悦が集めた李朝の陶磁器を見た河井は、無名の職人たちの粗野でのびのびとした作品に衝撃を受けます。
さらにその柳からの酷評を目にします。作品展は毎年開催され、高く評価されるものの、河井は古作の模倣の域を出ない自分の作品に悩み続けます。
1924年、濱田が帰国し、柳が京都に居を構え、山崎には日本初のウィスキー工場ができます。
第3話へ続く
*1 P256 14行 秦秀雄は、『陶説』に掲載された「わが陶師・わが陶友』において(略)倉橋は、陶器の鑑賞について(魯山人、
柳、小野の)「三人と並べて新しい鑑賞にくさびを打ち込んだ四天王のかくれもない一人物であった」とされている。*2『大日本窯業協会雑誌』1920年 第28集第355号 P271 16行「所謂美術陶器の窯元として所謂名工、大家になる事も出来又芸術家として起る事も出来そうな人に京都の河井寛次郎君がある」(ママ)
参考文献:「生誕130年 河井寬次郎展 山本爲三郎コレクションより」図録
アサヒビール大山崎山荘美術館/「山本爲三郎翁傳」山本爲三郎翁伝編纂委員会 朝日麦酒株式会社/「蘭花譜」加賀正太郎 同朋舎出版/「大日本窯業協会・工政会の倉橋藤治郎と胎動期の民芸運動ー美術と産業の間への視線」濱田琢司/「陶工 河井寬次郎」橋本喜三 朝日新聞社/「ニッカウヰスキー80年史」 80年史編纂委員会 ニッカウヰスキー/ 「茨木・東コース物語」東山利雄 社団法人茨木カンツリー俱楽部 /一般社団法人
大阪倶楽部 https://osaka-club.or.jp/ ほか