昨日の続きです。昨日の紙面(表面)はこちら
山本爲三郎は、1893年、大阪・船場生まれ。父の隠居により17歳で、従業員約500人と2つの工場をもつ山爲硝子製造会社(以降「山爲硝子」)の社長になります。当時山爲硝子は、ビール瓶(大阪麦酒のアサヒビールなど)やサイダー瓶(帝国鉱泉の三ツ矢サイダーなど)を主に製造する会社でした。
河井寬次郎は、山本の3歳年上で現在の島根県安来市生まれ。近所に窯があり、轆轤や粘土をいじって遊べる環境の中で育ち、絵を描くのが好きで、小中学生の頃から勉強に運動、文才にも長けた優秀な子どもでした。医者の叔父は彼が医者になることを期待しましたが、血を見て卒倒する姿を見て、「焼き物はどうか」と勧めます。
山本が若くして社長に就いた翌1910年、河井は東京高等工業学校(現・東京工業大学/以下「東高工」)窯業科に入学。しかし、東高工は技術者養成学校で、陶芸家をめざす寬次郎が思っていたような授業ではなく…
その年、加賀正太郎は日本人初のユングフラウ登頂の偉業を達成。翌年、東京高商(現・一橋大学)を卒業して大阪に帰ると、11年間休業していた家業の加賀商店を再開。23歳でした。加賀商店は証券や木材、土地などを扱う会社でした。
若くして社長になった山本爲三郎と加賀正太郎は、大阪財界人の社交の場「大阪倶楽部」のメンバーで、ここで交流していました。
河井寬次郎は、胸を病み東高工を1年休学。復学してみると、後に民藝運動を共に活動していく濱田庄司が入学していました。
河井は東高工を卒業すると、京都市立陶磁器試験場(陶磁器の最新技術を研究、指導する機関。以降「試験場」)に技手(技師の下に属する技術者)として勤務。
一方、最終学年を迎えた濱田庄司は、学校から実地見学先であった山爲硝子に行き、当時21歳の山本爲三郎と出会っています。
そして濱田もまた、東高工を卒業すると試験場に入所します。
参考文献
「生誕130年
河井寬次郎展 山本爲三郎コレクションより」図録 アサヒビール大山崎山荘美術館
「山本爲三郎翁傳」山本爲三郎翁伝編纂委員会
朝日麦酒株式会社
「大日本窯業協会・工政会の倉橋藤治郎と胎動期の民芸運動ー美術と産業の間への視線」濱田琢司
「陶工 河井寬次郎」橋本喜三 朝日新聞社
「ニッカウヰスキー80年史」 80年史編纂委員会 ニッカウヰスキー/
「茨木・東コース物語」東山利雄 社団法人茨木カンツリー俱楽部
一般社団法人 大阪倶楽部 https://osaka-club.or.jp/ ほか