1873年、ウィーン発の株価大暴落はヘレンドにも多大な影響を及ぼし、翌年経営破綻に。
「モールは7人の息子たちにヘレンドを任せ、故郷タタに戻って小さな磁器工房を営んだ。破産解除となった1876年、ウィーン代理店を任されていた三男シャームエルが社長に就任。息子たちはモールの経営方針を批判していたが、手技と芸術性にこだわった製品作りはひとまず継続され、フィラデルフィア万博では成功を収めた。しかし万博後も経営は苦しく、粘土が手に入らなかったのか、仕入れた白磁に絵を描き売っていたようや。その白磁の仕入れ先のボヘミアは良質の粘土が採れ、最新の機械と安い労働力で大量の磁器を作り、輸出していた。息子たちはこの生産体制の導入を望んでいたんや。
そのボヘミアの技術と機械を取り入れ、フィラデルフィア万博に臨んだ日本の評判は良く、大会後の競売会ではフランスの名陶セーブルよりも高値が付く品もあった。
1878年のパリ万博。ヘレンドが賞を手にすることはなかったが、ハンガリーのもう一方の陶磁器窯、ジョルナイ工房が大賞。日本も有田焼の金賞をはじめ多くの賞を受賞。しかし、パリ万博の報告書*1には『日本製品、ヨーロッパ製品ともお互いのデザインを模倣した出品物が多かったが、両者ともにその模倣が非常に拙い』*2と厳しい指摘が記載されていた」。つづく
*1「仏蘭西巴里府万国博覧会報告書」のこと *2「博覧会と明治の日本」國雄行 吉川弘文館 P1096行目
『Herendi porcelainMagyarorszagagrol』編集 大阪市立東洋磁器美術館
「ウィーン万博における陶磁器分野の伝習地ボヘミア地方の役割」長井千春・宮崎清
「19世紀ハンガリー磁器産業における企業活動ーヘレンドの戦略―」高田茂臣
『ハンガリーの建築スタイル紀行』パルフィ・ジョージほか INAX出版
「A Herendi Porcelángyár története」a 20. század elsö felében Doktori (PhD) értekezés Szüts István Gergely
「有田陶業側面史(明治編) 」松本源次 麦秋社
直輸入ブランド洋食器専門
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