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ドッチア窯(現リチャード・ジノリ)の工場変革は止らない!
「1791年、ロレンツォが亡くなり、まだ若かった息子のカルロ・レオポルド・ジノリ(以降レオポルド)は、しばらく母に経営を任せ、祖父や父と同様、各地の窯を回り、技術的な知識を蓄えてから帰国。高さ12mにもなる窯を造ったり、1801年には初の直営店をフィレンツェに開き、市民も磁器を手に出来るようにしたんや。
ドッチア窯(現リチャード・ジノリ)の工場変革は止らない!
「1791年、ロレンツォが亡くなり、まだ若かった息子のカルロ・レオポルド・ジノリ(以降レオポルド)は、しばらく母に経営を任せ、祖父や父と同様、各地の窯を回り、技術的な知識を蓄えてから帰国。高さ12mにもなる窯を造ったり、1801年には初の直営店をフィレンツェに開き、市民も磁器を手に出来るようにしたんや。
フランス革命、ナポレオン戦争とヨーロッパが大きく動いた時代で、芸術の世界ではネオクラシズム(新古典主義)が主流となり、有名画家のフレスコ画や油絵の複製やシンプルで直線的な『インペロ』様式のデザインなどが登場した。
1837年、レオポルドが亡くなってからは、幼い息子ロレンツォ2世ジノリ・リーシ(以降ロレンツォ2世)に代わって、レオポルド夫人が約10年間工場を運営した。
のちに成長したロレンツォ2世はフランスに渡り、磁器に関わる学問や技術を習得。ドッチアに戻り、工場を引き継いだ。
その数年後、パオロ・ロレンツィーニ(以降パオロ)を工場長に抜擢。パオロは、工場のさらなる改良や数々の万国博覧会への出展に尽力。以来、重要な役を担うんや。
またロレンツォ2世は、職人たちへ年金や保養所を用意するなど福利厚生も整えたんや。こうした彼の数々の手腕によって工場は大発展していったんやな。
そうそう、1873年のウィーン万博には日本も参加。閉会後に岩倉具視使節団がドッチア窯を見学してるで」。つづく
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