アメリカを代表する詩人のひとり、エミリー・ディキンスン。その一風変わった人となりと、謎に満ちた暮らしを描いた絵本が『エミリー』です。
エミリーは、ほとんど家を出ることなく生涯を過ごし、生前はわずか10編ほどの詩を発表しただけの無名の詩人でした。しかしその死後見つかった1700篇あまりの作品により、「19世紀文学史上最大の天才詩人」「アメリカの奇跡」と称され、現在も高い評価と熱烈な支持者を得ています。
絵本のなかのエミリーは、史実通り、父の残した屋敷でほとんど外の世界に出ることなく、人とも会わずに暮らしています。まちの人々は、彼女の顔も見せない隠遁ぶりに、「ちょっと頭がおかしいのでは」と噂していました。
しかしある日、隣に引っ越してきたピアノが上手い女性に、「ピアノを弾きに来て欲しい」という願いを書いて届けます。外に出ようとしないエミリーでしたが、決して内に閉じてしまっているのではなく、外界とつながる回路を持っていたのです。自然や美しいピアノの音は、彼女の内側の深く豊かな世界と共鳴するのでしょう。
隣人の女性は、自身の幼い女の子をともなってエミリー宅に出かけます。家では妹が迎えてくれましたが、エミリーの姿は見えず、2階で聴いているといいます。
母の演奏の最中に、ふと、階段の上から小さな拍手と声を聞いた気がした女の子は、こっそり部屋を抜け出しました。上って行った階段の先に、白い服を着たエミリーが座っていました。女の子がお土産のゆりの球根を渡すと、エミリーは喜んで小さな詩を書いてくれました。詩には、この世の不思議と美しさについて、そして女の子への感謝の想いが綴られていました。
クーニーが、物語の世界感に寄り添うような繊細で、温かみのある美しい絵を描いています。
19世紀、ピューリタリズムの嵐が吹き荒れた時代、エミリーは教会や学校からの押し付けを跳ね除け「自分」を保ち続けた、当時としては稀有な自我意識を持った女性でした。その生き方が茨の道だったことは言うまでもありません。多くの抑圧を抱えたエミリーは、生きるために詩を書き続けます。
世間から距離を置き、自らの奥深くに、庭の四季に、宇宙に、死に、希望に、どこまでも真直ぐに向かっていく孤独な作業。分け入って、分け入って進んだぎりぎりのところで紡がれる言葉たち。その苦しみが、よろこびが、尊さが、わたしたちを打ちます。
彼女の言葉を借りれば、それは「世界にあてた手紙」だったといいます。世界からは一度も返事が届くことはなかったけれども、エミリーは書き続けたのです。