第3話表面・前半からの続きになります。
第2話までのお話はこちら第1話、第2話
1929年春頃、大山崎で暮らしていた加賀は、芝川又四郎(不動産会社「千島土地」経営者・竹鶴の元家主)を通じて竹鶴と出会います。
1932年、独立してウィスキーづくりをすることを決心し、寿屋を後にした竹鶴は、加賀と芝川にウィスキー工場設立への出資を懇願。しかし加賀は、莫大な資金投資になることを懸念。
結局、二人に説得されて「大日本果汁株式会社」(のちの「ニッカウヰスキー株式会社」)の筆頭株主に。
山本為三郎は1934年、「大日本麦酒」常務取締役に登用され、東京へ。
山本の移住をきっかけに日本民藝館の設立が加速し、1936年、10年来の念願叶って東京・山本邸近くに開館。
翌年のパリ万博で、河井の「鉄辰砂草花図壺」がグランプリ受賞。
しかし、同年に盧溝橋事件から戦争へと突入。次第に戦局が悪化し、展示会も作陶も休止状態に。
終戦後、日本の経済解体を目的に次々と出る施策。山本は占領軍を訪れ、自主分割案等を説明。大日本麦酒は細分化を免れます。
一方、ウィスキーに舵を切った「ニッカウヰスキー」の業績は振るわず、竹鶴は銀行を回る日々。病を抱えた加賀正太郎は会社の先を考え、1954年、山本に資本参加を打診。朝日麦酒で多くの株を引き受けることに。その1か月後、加賀はこの世を去ります。
1950年代の河井は、三色打薬や筒描きの失敗から生まれた「泥刷毛目」技法の作品を次々と制作。
1957年、河井の「白地草花絵扁壺」がミラノ・トリエンナーレ国際工芸展でグランプリに。
1966年。山本が亡なり、その死を嘆き悲しんだ河井もまた、同年永眠します。
時代を実直に生きた河井・山本・加賀。三者三様の生き方に思いを馳せ、ぜひ、直に河井寬次郎作品をご堪能ください。 終
*1 千島土地 アーカイブブログ 「加賀正太郎と竹鶴政孝と芝川又四郎」https://blog.goo.ne.jp/chishima-archive/e/f51b89c369c95c9a1a0fa6e519d705d4 *2 川勝堅一:高島屋の宣伝部長などを勤め、第1回展覧会で初めて会い意気投合。生涯の河井の支援者でコレクター。